非正規ブログ ~幸せになりたかった~

幸せになりたかった37歳独身異常男性の日記

平成時代の思い出

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平成が終わる

今日、平成時代が終わる。昭和時代に生まれた僕は平成の30年と113日(11,070日)を丸々生きたことになる。一時代を最初から最後まで生きるのは人生で何度も経験できないことなので大変嬉しい。

平成は文明がすさまじいスピードで進化した時代だった。携帯式電話、ポケベル、PHS、電子メールと文明の利器が次々に登場した。パソコン、インターネットが普及した。国民のほぼ全員がスマートフォンを所有するようになった。いろいろなことがあった。いま、平成の30年間を思い出しながらこの文章を書いている。

平成初期 1990年~1999年

90年代の前半は、よく覚えていない。学校に馴染めずにいじめを受けていたので、脳が嫌な記憶を消去してしまったのだろう。ただ、1995年の阪神淡路大震災のことはよく覚えている。生まれて初めて経験した震災。台所の鍋が棚から落ちて真っ二つになり、冷蔵庫が大きく傾いていた。犠牲者の中には、地震で飛んできたテレビが直撃したり、倒れてきたタンスに潰されて亡くなった人もいたらしい。僕はそのニュースに衝撃を受け、今でもテレビやタンスの近くでは寝ないことにしている。どこかに宿泊するときも、重量のある物からは必ず離れる。

阪神淡路大震災が起こってすぐ、小学校で新聞を作成したことを覚えている。六年生の課題だった。震災の発生後しばらくは「兵庫県南部地震」という呼ばれ方をしていたので、それも強く印象に残っている。

僕は小学生の頃、勉強も運動もできない気持ち悪い色白のメガネデブで、絵に描いたようないじめの標的だった。中学に入ると少し背が伸び、学習塾に通い始めて授業にもついていけるようになったので、前のようにいじめを受けることは無くなった。同級生と仲良くなることはなく、休み時間は机に突っ伏して寝たふりをする孤独で暗い中学生活だった。

そのときに出会ったのが音楽だった。孤独だった少年は音楽に夢中になった。レンタルCDショップで1枚100円のCDを借り、それをカセットテープに録音していた。黒いラジカセとカセットテープは宝物だった。カセットテープは何度も聴いているとテープが伸びて音質が劣化するので、特に好きな曲は保存用のマスターテープに録音した。カセットテープにはA面とB面があって、また録音できる時間も決まっていて、時間をオーバーしないように曲を調整した。音楽を流したまま寝てしまい、起きたら電池が使えなくなっていることもあった。歌詞を覚えるために耳で聞いた歌詞をノートに書き出していた。すべてがいい思い出だ。

90年代は、BOOK OFFの元祖とも言える中古のCDや漫画本を売っている店が多く存在していた。バブル時代でCDが飛ぶように売れていて、買い取った中古品やレンタルショップの使い古しも大量に出回っていた。中学生の僕には3,000円のCDアルバムを買えるだけの余裕が無かったので、自転車でいくつも店を回ってZARDやスピッツのアルバムを中古で買っていた。欲しいCDを店で発見できたときはとても嬉しかった。

そして、中学三年生の冬、僕は初めて新品で音楽CDを買った。ZARDの「My Baby Grand ~ぬくもりが欲しくて~」という曲で、買った場所は都島区のベルファ都島3FにあるCDショップ。だからこの歌には特別な思い入れがある。20年経った今もプラスチックのケースに入れて大切に保管している。

高校は女子のいない男子校に進学した。華が無くスケベな本やビデオが回っている暑苦しい三年間だったけど、小・中学校よりは断然過ごしやすかった。相変わらず休み時間は机に伏していた。

勉強中はカセットウォークマンを離さなかった。大学受験が近づいてきた頃、MDウォークマンを購入した。長い間お世話になったカセットテープは使わなくなった。音が劣化しないMDウォークマンに感動して2007年まで使っていた。カセットからMDに移ったため、僕は生涯で一度もCDウォークマンを使うことは無かった。

そして1999年、歌手の宇多田ヒカルが社会現象を巻き起こす。同い年のスーパースターの登場に誇らしい気持ちになった。宇多田さんが出てくるまでは、一番有名だったのが酒鬼薔薇聖斗という男だったからだ。この犯罪者のせいで、僕らの世代は常に「キレる◯◯歳世代」と呼ばれていた。

雨の降りしきるセンター試験日、MDに録音したZARDベストを聴きながら気持ちを整えていたのは今でも覚えている。明るい未来を夢みて大学に進学する。

平成中期① 2000年~2005年

大学まで電車通学をしてこなかった僕は、電車通学が苦痛で仕方なかった。それ以上に大学の雰囲気が嫌だった。みんながサークル・恋愛・アルバイトを華麗にこなす充実した大学生になろうと必死だった。少なくとも僕にはそう見えていた。そんな大学が嫌すぎて、とうとう不登校になる。単位を取れずに留年した。無難に人生を生きてきたはずだったのに、大学では全てが上手くいかなくて挫折ばかりしていた。公務員試験の勉強も続かなかった。網膜剥離を発症し、医師から病気のことを知らされた。自分が障害者に近い人間だという現実も突きつけられた。入院をした。手術をした。思い返せば、大学の五年間が人生で一番苦しい時代だった。テニスサークルの見学で全員に無視され、成人式で全員に無視され、一生消えない心の傷を負った。

地獄のようなキャンパスライフから僕を救ってくれたのはインターネットだった。2000年に入り、携帯電話やパソコンの普及率が上がった。一家に一台パソコンがある時代になりつつあった。引きこもる時期とインターネット黎明期がちょうど重なり、僕は『2ちゃんねる』に没頭した。age、sage、逝ってよし、オマエモナー、氏ねよおめーら、漏れ、香具師、もう誰も使っていない言葉が飛び交うクソスレを見て毎日笑っていた。ネットをしている時だけは笑顔になれた。

当時のインターネットは「ISDN」という電話回線を使った接続方式で、ネットに接続している時間が長ければ長いほど電話料金が増えていく恐ろしい時代だった。月に数万円も請求されて親から詰められたこともある。だから、家で『2ちゃんねる』のスレッドを見るときは画面を一気にたくさん開いて、スレッドを開き終わると回線を引っこ抜いて接続を切っていた。「回線切って首吊って◯ね」という煽り文句も懐かしい。

その数年後に「ADSL」が登場して、回線を抜いたり差したりする必要がなくなった。インターネットに繋ぎ放題になると、ネットでファイルをダウンロードすることを覚えた。まだまだ通信速度が遅く、1MBのデータをダウンロードするのに何分も掛かった。たった10MBのファイルをアップロードできるアップローダーさえも無くて、分割してアップロードされたファイルをダウンロードして、その分割ファイルをソフトで結合するほどダウンロードに手間がかかった時代だった。今は100MBのファイルでも一瞬でダウンロードできるのだから、どれだけ進化したのかが分かる。

そして今は亡き天才エンジニア・金子勇氏が開発したファイル共有ソフト「Winny」は社会を大きく動かした。ファイル共有ソフトを介したウィルスが大流行して、著作権に関する議論が取り上げられるようになった。ソフトの使用自体が犯罪とみなされるという噂まで流れていた。

ファイル共有ソフトでコピーされた音楽ファイルが拡散される問題を受けて登場したのが「CCCD(コピーコントロールCD)」だ。CDの最初の数秒に特殊なデータを埋め込んで、パソコンで取り込む際にエラーを起こさせる仕組み、だったと思う。CCCDは通常のCDと比べて音質が悪く、評判は最悪だった。CCCDをリッピングするための対策ソフトも開発されていた。そういったソフトを探して使うのは楽しかった。

夜には『2ちゃんねる』ユーザーが配信するネットラジオをよく聴いていた。思い出に残っている曲は、プリンセス・プリンセスの「M」、リンドバーグの「GAMBAらなくちゃね」、そして武田鉄矢の「少年期」。朝までネットサーフィンして、「少年期」を聴いて寝るという廃人生活を送っていた。

大学生活は変わらず苦しいものだった。所属した研究室の教官は妥協を許さない血気盛んな若い教官だった。出される課題が膨大すぎて終電の時間まで帰れなかった。研究室に泊まり込んでいる学生もいた。間違いなく学部で一番のブラック研究室だった。なぜ僕がそんな研究室に所属していたのかと言うと、人気の研究室には成績が悪くて行けなかったからだった。要領良くテストで高得点を取った学生はホワイト研究室、成績の悪い学生は不人気のブラック研究室。まさに自業自得、自己責任。社会の厳しさを痛感した。教官は体育会系で頭が切れ、部屋の中で喫煙までする恐ろしい人間だったので、毎日血圧が上がりっぱなしだった。気分屋で、腹が減ると学生を強引に食事に付き合わせて、まったく気の休まる時間が無かった。限界を超えたときは部屋を抜け出して別の棟のトイレに逃げ込んで吐いていた。窓から飛び降りて楽になろうと思ったことも何度もあった。

卒業研究と並行して行っていた就職活動では完膚なきまでに自分を否定された。エントリーシートで全部落とされ、いきなり面接してくれる企業からも内定は一つも取れなかった。哀れな自分を見かねた教官が、コンピューター会社にコネクションを持つ教授に推薦を頼んでくれた。コネで入社するのは本意ではなかったが、内定を取れていないので言い返すことができなかった。就職活動を理由に研究をサボるのはやめろと教官の目が言っていた。推薦された企業にエントリーシートを持参し、軽い面接を行った。こんなところに世話になりたくないという気持ちが全面に出ていたのか、ちゃんとした志望動機も言えなかった。数日後、教官から呼び出され「お前、面接で何をやったんだ」と詰められた。先の面接官が「入社したい意思が見えてこない」と断りの連絡を入れてきたらしい。推薦した教授に恥をかかせたとして、めちゃくちゃ怒られた。行きたくない会社に勝手に推薦されて、面接で落とされて余計に怒られて、最悪の展開になっていた。生きるのが下手すぎる自分が情けなかった。夏になっても内定は取れず、就職活動する気力も無くなっていた。教官も就職活動に関して何も言わなくなった。

卒業研究も終盤に差し掛かり、1月と2月は数日しか家に帰れなかった。辛い感情が高ぶりすぎて、一度だけ部屋で泣き出してしまったことがある。涙を抑えきれず、体の震えが止まらなかった。あれだけ精神がおかしくなったのはあの瞬間だけだった。誰もいない棟で涙を流しきり、そのまま逃げてしまおうかと思った。なんとか卒業発表を終え、研究室に行くこともなくなった。誰にも会わずにひっそりと卒業式に参加した。まだ内定は取れていなかった。

平成中期② 2006年~2009年

無内定で大学をした僕は、親から激しい詰めを受けていた。公務員試験のために勉強すると言って留年を許してもらったのに無内定で大学を卒業したのだから当然だ。大学に入学したときには「よく頑張った」と褒められた青年が、大学を卒業するときには「お前は一体何なんだ」「人生をなめるな」と容赦なく罵倒の言葉を浴びせられている。この地獄を誰が想像できただろう。落ち着ける場所であるはずの家なのに、親が悪魔にしか見えなかった。死にものぐるいで就職活動をした。IT派遣会社が契約社員として僕を拾ってくれた。同期には高卒、専門卒、文系学生、年齢不詳の中国人などがいた。ひと通りの研修が終わるとそれぞれの派遣先に派遣されるようになったが、最後まで取り残されていたのが僕だった。僕は同期の誰よりも使えない人間だった。

初めて派遣された会社は神戸だった。電車で一時間半かかる果ての地域だが、残業が少ないのは救いだった。そしてこの頃、大学の知り合いから誘われたベンチャー企業によって借金を背負わされる。世間知らずの青年は数十万円を騙し取られ、人間の悪意に触れて人を信用しなくなった。数年後、そこの社長は逮捕されていた。

仕事のほうでは、人間関係で揉めていた。同じ会社から派遣されている女の先輩と険悪な関係になり、ひたすらいじめられていた。質問をしても答えてもらえず、他の人に質問しに行くと「なんで私に聞きに来ないの!?」と嫌味を言われる。だから女とは合わないんだ。気に入らない相手がいると仕事の進捗を無視して陰湿な行動に走る。幸いなことに、この職場は三ヶ月で離れることができた。噂ではこの女が僕をプロジェクトから外すように頼んだとか頼まなかったとか。真相は知らない。

神戸の会社を離れてすぐに、難波パークスにある大手グループの子会社に派遣された。最近、解体の話が出ている「拝承。」の決め台詞で有名なグループだ。ここで僕はIT企業の闇を知ることになる。

プロジェクトを仕切っているのは30代後半の課長。高卒の叩き上げで気性が激しく、声を荒げたり机を蹴ったり、暴力で部下を統率するタイプの人間だった。どうして僕の周りの人間はこんなのばかりなのだろうと思いながらも、会社員一年目のルーキーなので黙って働いていた。

派遣されて一年ほどは「36協定」に従って月45時間以内の残業に抑えられていたのだが、プロジェクトに火がついてからは職場は無法地帯に変化した。残業時間は軽く80時間を超え、毎月のように産業医と面談していた。いくら辛さを訴えても環境が改善されることはない。ただ、形だけ面談をしている無意味な時間だった。

月の残業が120時間を超えた月は残業代も乗りまくって、月収は40万円を超えた。26歳でこれだけ貰える仕事はそうそう無いだろう。残業代が出ていたのはさすが大手企業だと感じる。しかし、休日も普通に出勤させられ、プライベートが無い。家に帰って寝るだけで、趣味を楽しむ余裕も時間もない。給与明細を見ても何の感情も湧かず、一日も早くこの状況が終わってほしい気持ちしかなかった。大学時代で地獄を見ていなかったら、おそらく失踪していただろう。

少し話を脱線すると、この頃にiPodを購入した。パソコンから音楽を自由に出し入れすることができ、動画まで見られるiPodは僕の願いを全て叶えてくれる機器だった。スマートフォンを手にした後でも、音楽だけはiPodで聴いていて、10年間使っていた。4万円もしたけど、10年間毎日使っていたと考えたら決して高い買い物ではなかった。

そして、僕の青春だったZARD・坂井泉水さんが転落事故で亡くなった。仕事帰りの電車で何気なく携帯電話のニュースを見ていると、坂井泉水さん死去という字が飛び込んできて言葉を失った。2000年代になってZARDが活動を控えているのは知っていたが、全国ライブツアーも行っていたので、突然の訃報は想像もしていなかった。北堀江にある献花台へ行き、記帳した。心に穴が空いた気がした。坂井さんを偲ぶ雑誌やZARD関連の本をとにかく集めた。いつまでも忘れないようにするために。

炎上プロジェクトが収束に向かいつつあった2008年の9月、リーマンショックが起こる。無尽蔵に残業代を支給していた会社もさすがに影響を受けたようで、人員削減の流れになる。このタイミングで僕は炎上プロジェクトから逃げることができた。自社のほうも仕事らしい仕事が無くなり、僕を含めた20名近くが社内待機になった。そのときの給料は13万円。定時に出社して定時に退社。何もせず帰るだけの日々が続いた。

一ヶ月ほど経ち、社内に不穏な空気が流れ始めた。待機社員に自主退職を促す動きが起こり、ぞろぞろと社員が辞めていった。僕はと言うと、上司から5年後、10年後のビジョンを提示するよう指示されていた。何年後にどんな資格を取って、会社でどんな立場にいて、どれだけの成果を出しているのか、細かく細かく書かされた。

その作業に終わりは来なかった。いくら書いてもOKを貰えず、書き直しをさせられた。上司から「書けないのは自己分析が甘すぎるからだ」と言われ、自分の欠点をノートに100個書くように言われた。欠点の横に、それを改善するためには何をすればいいのかも書かされ、もう書いても書いてもきりがない。自分の欠点を書いているうちに自尊心はズタズタに引き裂かれ、40個書いたあたりで涙が止まらなくなっていた。

2009年1月、僕は無職になった。

平成後期 2010年~

退職の手続きはあっさりとしたものだった。便箋にしたためた退職願を提出すると淡々と事務処理が行われ、職を失った。心身が疲弊しきった僕は、しばらく働くことができなかった。まだ26歳だから大丈夫だろうと適当に転職サイトに登録して資格の勉強を始めた。何が目的なのかもわからずにTOEIC、電験、漢検などに手を出した。TOEICはスコアが伸びず、電験は挫折。取得できたのは漢検2級だけだった。

転職サイトを見てみると、届くオファーはIT関係ばかり。転職エージェントに話を聞くこともあった。紹介されるのは年間休日90日を切るような求人だけ。ある日、担当のエージェントに残業時間の話を持ちかけると、月に100時間を超えているような話が出てきた。それで転職エージェントを利用するのはやめた。いい転職先があるならエージェントがそこに行っているはずだからだ。

転職活動が滞っている間、僕はライブに行くようになっていた。坂井泉水さんが亡くなり、二度とZARDのライブに行くことができなくなった。どうして行っておかなかったのだろうと激しく後悔した。坂井さんが初ライブで話していた一期一会の話を思い出して涙した。会えるときに会っておかないと一生後悔してしまう。人がいつどうなるかは誰にもわからない。お金は後から稼ぐことができても、一期一会のライブを逃すと二度と会えない可能性がある。後悔しないようにライブに行く。それが坂井さんが僕に教えてくれたことだった。

無職になって数ヶ月、アルバイトを探し始めるが、採用に至らない。根暗で不細工なので接客業のアルバイトは全敗した。最終的に学習塾のアルバイトをすることになった。僕はそこで働きながら通信制大学に通い、二年半かけて教員免許を取得した。自分が本当に免許を取りたかったのかどうかはわからなかった。食いはぐれない免許を持っていれば生きていけると、単純にそう思っていた。

教員免許を取得した僕は、翌年から非正規の教育公務員になった。大阪は経済レベルが他府県に比べて低く、労働環境も悪い。僕が行った学校も荒れていた。教育公務員は残業代が付かない。給料月額のたった4%が残業調整手当として支給されるのみ。手を抜くこともできるが、仕事を追究すると終わりが無い。だから残業はどうしても発生してしまう。無償で駆り出されることもある。学校は官製ブラック企業だった。調整手当だけで働かせ放題の状態になっている。免許を取得するための学費は回収できたが、わずか数年で退職を決意した。

IT時代の拷問じみた進捗報告がトラウマになっていたので、裁量が利くこの仕事は性に合っていたかもしれない。金曜日に定時で帰り、静かな土日に学校に行き仕事をすることもできた。心に残る出来事もたくさんあった。初めて指導した学年の卒業式では人目をはばからず号泣した。それでも続かなかったのは、周りの人間と自分は違うのではないかという違和感が最後まで拭いきれなかったからだ。ただの思い込みかもしれない。苛烈な仕事に心が挫けただけかもしれない。周りからは引き止められたが、特に母からは大反対されたが、一度口に出した決意を撤回することはしなかった。

僕はまた無職になっていた。

平成の終わりに見つけた生き方

何も残っていなかった。積み上げたものを壊すでもなく、中途半端に石を積んでまた別の列に石を積み上げるような人生を送っていた。転職の限界と言われる35歳、己の人生を見つめ直すことにした。健常な人間だったら人生の設計図が出来上がっている時に自分は一体何をやっているんだろう。気がつけば同年代の人間から置いていかれていた。いや、もっと前から落伍してたのか…。

友達も恋人もおらず、社会的地位も失った僕は、単身で海外に行くことにした。あまりにも衝動的な行動に母は唖然としていたが、もう親の言うことを聞く年齢でもないし、そのまま飛行機に乗って日本を離れた。

海外での生活を通して、あれほど合わないと思っていた日本の素晴らしさを改めて感じてしまった。水が普通に飲めること、トイレが綺麗なこと、犯罪に巻き込まれる可能性が限りなく低いこと。上級国民・一般国民の身分格差はあれども、日本に生まれただけで幸せというのは間違いでもなかった。帰国した日、母が用意してくれていた水炊きを食べた。

日本に戻ってきた僕は「何でもいいから頑張ろう」と転職したのだが、再び退職してしまう。それもたった三ヶ月で。月340時間働いて休みが数日、GW前後で13連勤というとんでもない職場ではあったけど、それよりも懲りずに退職してしまう自分の愚かさと情けなさはどうすれば治るのかと頭を抱えた。今回は呑気に無職をやってる時間と貯金が無かったので、休日の間隙を縫って転職活動した。ここまで必死になったのはいつ以来だろう。思い出せない。

あれから一年、僕はこうして時代をふりかえっている。平成時代が始まる頃に描いていた人生にはなってない。低収入で、結婚もできず、友達もおらず、将来が何も見えない敗北者だ。仕事の奪い合い、女の奪い合い、その全ての勝負で負けてきた。

数々の挫折を経て、僕は一つの結論を出した。健常者にはどう足掻いても勝てないし、同じフィールドで戦うことが土台無理な話だった。健常者が手にしている「家族」「地位」「収入」は全部あきらめた。知足富者。他人の生き方を気にせず、自分が幸せになるために生きてゆく。それが、平成時代の終わりに僕が見つけた生き方だった。